ヨシムラジャパン創業者 吉村秀雄 “POP吉村”
吉村秀雄“POP吉村”
「おまえらそんな不真面目なことでどうする!もっと真面目にやれ!」
昭和29年、雑餉隈でオートバイ屋を経営していた吉村秀雄は、店に遊びに来た米兵をしょっちゅう叱り飛ばしていた。遠い異国の地に来て唯一くつろげ、家に帰るように遊びに行ける場所。そして自分のことを親身になって怒ってくれる親父のような存在の吉村の事を、米兵達は“POP”と呼び始めた。
POPとは“おやじ”の意味であり、これ以降、吉村秀雄は“POP吉村”という愛称で呼ばれるようになった。
フリーライターとして活躍されている富樫ヨーコさんにおやじさんへの思い出をつづっていただきました。
おやじさん
8耐と言うとおやじさんのことを思いだす。’78年に第一回目の8耐で優勝した時のおやじさんの姿が目に浮かぶ。
あの時、おやじさんは自分の”すべて”を賭けていた。敵はホンダRCB。誰もがホンダ勢の優勝を確信していた。ヨシムラの挑戦。それは例えるなら、酸素マスクをつけずにエベレストに挑むということ。あるいは、灼熱のサハラ砂漠を徒歩で横断しようとすることぐらい無謀に映っていた。でも、おやじさんにとって、8耐優勝は決して実現不可能な夢ではなかった。いや、むしろおやじさんにとって、”挑戦せず不可能だと終わらせる”などという考えは存在しなかったのだろう。あの時、おやじさんは勝利を確信していた。アメリカから連れて来たウエス・クーリーとマイク・ボールドウィンの両ライダーをはじめとするヨシムラ軍団。少数精鋭のメカニック達の息は、ぴったりと合っていた。それは初の8耐制覇というひとつの大きな目標に向かって全員のエネルギーが炸裂した瞬間だった。ヨシムラのピットを覗き込むと、そこには目をギラギラ光らせたおやじさんの姿があった。獲物を狙うハンターとその子分たち。敵はあっけなく自滅していった。
今でも思う。あの時の勝利はおやじさんの気迫勝ちだったと。おやじさんは教えてくれた。レースの勝敗を決するうえで、いかに気迫が重要かということを。目標を達成するためには挑戦者の魂が必要だということを。それは私達の”生き方”にも共通することだと思う。
ヨシムラが初制覇を遂げてから20余年。あの日、満面に笑みを浮かべて優勝を喜んでいたおやじさんはもういない。でも、おやじさんの精神はヨシムラに生き続けている。そのヨシムラが来年の8耐をどう闘うか・・・。今から楽しみだ!
富樫ヨーコ
Profile
1922年 | 10月7日福岡県に生まれる。 |
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1937年 | 海軍少年航空学校に入校(予科練の前身)。 |
1938年 | 予科練を除隊。大日本航空に入社し18歳で航空機関士となる。 第二次世界大戦中はシンガポールなど南方航路に従事。 末期には特攻機の誘導を行い、病院で終戦を迎える。 |
1945年 | 復員して福岡に戻る。 戦後の混乱期にはいろいろな商売をしたが、戦前に父親が発明したベルトコンベアの継ぎ手を炭坑に売り込む仕事が軌道にのり始めたころ、商売の足として使っていたオートバイに興味を覚える。 |
1954年 | 兄の経営する鉄工所の一角を借りてヨシムラモータースを創業。 |
1955年 | 板付基地内で米兵が行っていたレース用のマシンの性能アップに取り組み始める。 |
1957年 | 九州タイミングアソシエーション(KTA)を設立。 |
1959年 | 米板付・雁ノ巣・ジョンソン基地などでロードレース、ドラッグレースに参戦。 |
1962年 | MCFAJとKTAとの共催で第5回全日本モーターサイクルクラブマンレース雁ノ巣大会が行われる。 POPはトップ走行中に転倒し、ライダーを引退する。 |
1963年 | 全日本選手権第1戦でヨシムラマシンに乗る高武富久美が優勝。 ホンダからの依頼によるCB72とCB77のチューニングを開始する。 |
1964年 | 鈴鹿18時間耐久レースにCB72とCB77で出場し、優勝する。 |
1965年 | 板付基地閉鎖でKTAメンバーが横田基地に移ったのを受けて、横田基地に近い東京都福生市にヨシムラコンペティションモータースを開業する。 同時にホンダS600のチューニングも開始する。そして1年後秋川に工場を移転する。 |
1966年 | 4輪でもヨシムラチューンのマシンが国内で活躍し、ショップチームの西多摩スピードクラブが設立される。 |
1971年 | 試作の4into1を初めてCB750に装着してオンタリオ250に参戦。 |
1972年 | 集合管の市販を開始する。 |
1973年 | アメリカに渡り、ヨシムラレーシングを設立。 |
1975年 | 1月に一時日本へ帰国するも、6月に再び渡米してヨシムラR&Dを設立する。 |
1976年 | この年、アメリカでGS750の生みの親である横内悦夫氏と運命的な出会いを果たす。 この時からスズキとヨシムラのジョイントが開始された。 |
1977年 | 2月にアメリカ工場が火事に。POPは大火傷をおってしまう。 |
1978年 | 第1回鈴鹿8時間耐久レースでウェス・クーリーとマイク・ボールドウィンが優勝。 |
1979年 | POP本格的に日本に帰国。AMAスーパーバイクシリーズチャンピオンを獲得。 ヨシムラパーツショップ加藤を有限会社ヨシムラパーツオブジャパンに改組。 |
1980年 | 会社を現在の地である神奈川県愛甲郡愛川町に移転。 |
1984年 | 社名を株式会社ヨシムラジャパンに改名。 全日本選手権TT-F1/F3に本格参戦開始。実質的にこれがPOPが指揮を執った最後の年となる。 |
1985年 | 吉村不二雄が監督就任。 辻本聡がTT-F1チャンピオンを獲得。 |
1986年 | 辻本聡が2年連続TT-F1チャンピオンを獲得する。 |
1989年 | ダグ・ポーレンが全日本TT-F1、F3のダブルチャンピオンを獲得。 この年、吉村秀雄は会長に退き、代表取締役社長に吉村不二雄が就任。 |
1995年 | 3月29日 逝去 享年73歳。 |